宇和島市議会 2022-09-16 09月16日-04号
大正大学の岡山教授は、トイレくらい何とかなるは男性の発想だ。外でなどと軽く考えがちだが、女性はそうはいかない。障害者や高齢者のことも考えた環境整備が必要と指摘し、さらに劣悪なトイレ環境は健康も脅かす。感染症のリスクが高まる。
大正大学の岡山教授は、トイレくらい何とかなるは男性の発想だ。外でなどと軽く考えがちだが、女性はそうはいかない。障害者や高齢者のことも考えた環境整備が必要と指摘し、さらに劣悪なトイレ環境は健康も脅かす。感染症のリスクが高まる。
明治から大正、昭和の初めまでは、戦争が絶えないときでありました。内戦である戊辰戦争に始まり、1877年の西南戦争、そして、外国との戦争であった日清、日露戦争、大正に入って第一次世界大戦、昭和の日中戦争から太平洋戦争までと、明治元年から1945年8月の敗戦となるまでの77年間は、戦争に明け暮れた時代であったと言っても過言ではありません。 そして、今年、1945年から77年たちました。
ちょうど2年前ですか、議会活性化、当時の特別委員会の研修会で指導をしていただいた行政専門の大正大学江藤俊昭教授は、「協議中を理由に町が答弁しないからこそ、むしろ議会は百条調査特別委員会を設置し、答えさせなければならない。それが議会の役割だ。」と、議会の信頼失墜を大変懸念しておられます。 要望書にある「議員は町民の代表としての仕事をしてください。」と。そして再度申し上げます。
ただ問題は、暴走族というのは、昭和の時代からどんどんどんどん、もしかしたら大正の時代から走っとるかもしれませんけれども、それがハーレーダビッドソンとかといって、一応バイクを愛する人たちが50台つるんで走っても、これは暴走族じゃない。ほんでブンブンブンブン原付も含めて伊予川内線辺りを走って、めちゃくちゃな走りも含めて走っているのを暴走族と呼ぶ。
病床機能の分化・連携を目指すものですとありますが、一方で、今の新興・再興感染症の感染拡大時に短期的な医療需要が発生した際に、これに適切に対応する観点も必要だという議論がされていますので、今こそ吉田病院が新しく変わっていく中でそういった対応ができるような病院になっていくことが必要じゃなかろうかと思うので、そういった観点、しっかりとまた今計画の中で入れていただけるならば、例えば昭和29年だったですかね、大正
日本の人口の推移を見てみますと、大正9年に第1回国勢調査が実施され、そのときで約5,600万人。戦後、高度経済成長期を経て、平成22年の国勢調査では1億2,800万人余りでありましたが、以降、人口減少に転じ、今年10月1日の人口推計では1億2,600万人を切っております。なお、今後、長期の人口減少過程に入り、28年後には1億人を割ると推計されております。
激動の明治・大正・昭和の時代を力強く生き抜いた山下亀三郎は、幼少期から庄屋の家の子として厳しくしつけられ、郷土に対する思いは、私の郷土愛、郷土山河に親しむということは、人一倍だと思っている。中略。帰省は両親・兄妹に会うためじゃない。郷土に会うためだと言っております。この強烈な郷土を思う心は、幼少期に形成されたのではないかという思いをはせて、本市の保育についての質問に入ります。
私たちの先人が、近代の明治・大正・昭和の間に、コレラ、腸チフス、ジフテリアや赤痢などの伝染病に対し、どのような取り組みを行ってきたのか、保健・衛生行政の歴史を振り返りながら質問を行います。
大正時代から立花地区での特産として栽培され始め、風味と歯応えが抜群であります。 今後、これら自慢の農産物を今治市の特産ブランドとして全国に発信し、さらにブランド力を確立させていくためには、担い手を確保し、安定した生産量を維持しながら、同時に、品質の均一化やさらなる高品質化を目指していくことも重要でございます。
伊予カンを例に産地づくりの沿革をたどってみますと、三好保徳さんが萩市のナツミカンの偶発果実を松山市に持ち帰ったのが1889年、明治22年で、伊予カンと名づけたのが昭和初期で、宮内いよかんが本市の平田地区で見つかったのが1955年の昭和30年、苗木登録は1966年の昭和41年で、明治、大正、昭和、平成を経て全国に知れ渡る現在の産地ができ上がっています。
御承知のとおり、卸売市場は、生鮮食料品等の取引の適正化と生産者及び流通の円滑化を図り、消費生活の安定に資することを目的として設置されておりますが、その歴史は古く、大正時代までさかのぼります。
あけぼの荘におきましては、古くは明治大正年間、満倉地区の和泉辰三郎氏が現在の源泉地付近の赤木川のほとりに川湯温泉の温泉宿をつくっておられました。大正9年の大洪水によりまして建物が損壊をしそのままになっておりましたけども、昭和45年、ボーリング調査を行い、湧出量が確保できるという状況の中で、観光開発の機運が高まったということで、54年つくっております。 以上です。 ○議長(内倉長蔵) 吉村議員。
北条鹿島には、その名のとおり、古くから鹿が生息し、明治から大正期には鹿守りを置いて、鹿に餌を与え保護し、現在では鹿園で子どもたちが餌をやったりするなど、昔も今も変わらず地元住民を初め多くの皆様に親しまれています。
高校野球が、大正、昭和、平成と引き継がれ、令和の時代になっても国民に愛され続け、感動を与えてくれているのは、先輩たちからの伝統を継承しながら、選手それぞれが、日々の苦しい練習に耐え、泥だらけになりながらも、チームが一体となり、全力で戦っているからだと思います。高校球児だった私は、当時監督から、チームワークとは何かを教わりました。
ちなみに、1920年、大正9年に第1回の国勢調査が開始され、そのときの日本の総人口は5万5,000人だったんです。100年前です。5,500万人。 南宇和の人口は、今の人口の半分以下ですから、どれだけ少ないのかなと思って調べたら、その100年前でも当時の7つの村で3万2,670人おるんですよ。現在よりもはるかに多い数字です。
ちまたでは、明治・大正・昭和・平成に新元号が加わり、西暦との換算がさらにややこしくなった、改修実務が煩わしいなどの声が飛び交っている中、本年4月外務省は、外交交渉で西暦を使用する一方、省内の文書は西暦と和暦が混在し、読みかえが煩雑な上、間違うおそれもあることから、基本は西暦を使うように変更していくと明言しました。
江戸時代、明治、大正、昭和、平成の時代は、時代の常識や普通、当たり前だったことが、令和時代では、常識や普通、当たり前ではなくなり、働き方、雇用、年金などはもとより、日々の行動、生き方、そして価値観までもが、今までの当たり前や普通ではなくなってきていることは、薄々かもしれませんが、お気づきいただいていることと思います。
日本独自の元号は、明治かたぎ、大正ロマン、激動の昭和など、その時代時代が醸し出す空気を感じ取ることができます。元号は、時間をあらわす制度というよりも、日本人にとってその時代の生き方をあらわす文化なのではないでしょうか。改元が行われても急に世の中が変わるわけではありませんが、元号が持つ一つの時代の区切りが、新たな人生の節目をつくってくれます。
明治、大正、昭和、平成と、4つの時代を経て多くの方々に愛されてきた道後温泉本館をしっかりと次の世代へ引き継いでいきます。
振り返りますと、明治、大正、昭和、平成と続いた150年の歴史の中で、戦争のなかった時代は平成だけであります。明治には日清、日露、大正には第一次世界大戦、そして昭和の第二次世界大戦も、もはや前の時代のことになりました。前の前の時代に起こったことになるわけです。